喜悦旅游#9 「宗谷丘陵」〜北海道編7
更新日:10月6日
日本最北端、宗谷岬。
役目を終えながらも、「端」の世界を今なお見届ける旧海軍望楼を後に、宗谷丘陵に向かう。
稚内からオホーツク海を左手に眺めつつ、宗谷岬に向かう道で、ずっと右手に見えていた丘に、わたしたちは夕陽を見に行くことにした。
日本最北端で沈む夕陽は、いったいどんな雰囲気を醸し出すのだろうか。
丘陵に向かう道は、次第に草茂るオフロードとなっていく。
ギリギリ行けるところまで車で行ってみる。遠いところで草を食んでいる鹿たちは、潮が引くように何処かへ散らばっていった。あんなに小さく見えるのに、なんという鋭敏な本能だろうか。
それにしても広い丘だ。淡い夕焼けのグラデーションと水平線、海の青、丘の緑。視界いっぱいに、見事な自然のストライプを見せてくれている。

車のわだちが残るギリギリのところまで進み、停めた。ドアを開けると、冷えた空気が一気に吹き込む。北海道は、もう完全に秋の気配だ。
駐車するや否や、盛田さんは写真を撮り始める。
盛田さんの写真の面白さは、彼の目線で撮っているところだ。肉眼で見ている景色を、写真という形で切り取っているのだ。それは、空気感という形で現れる。目を向けるところにある、ことばに出来ないエネルギー。ある時は穏やかさ、ある時は緊張感、またある時は静寂。ことば無きものに眼差しをむけ、ことばを使わずに雄弁に伝える。彼の才能だ。

「こっち向いて」
不意に写真を撮られた。世界に向ける眼差しを、ほんの一瞬で切り取っていく。カメラは、まるで彼にとって刃物のようだ。それでいて、息を吸って吐くように、あたりまえの営みとしている。あとで写真を見ると、まったく自分が知らない自分が写っている時がある。
自然でありながら、わたしの知らないわたし。盛田さんの写真を見るたび、自然とは、物事とは、ひとつのことばで括れるものではないと感じる。
パシャっと撮ったかと思ったら、もうどこかに行ってしまった。ぼんやりと思う。わたしは、どんな真実として、今の写真に写っているのだろうか。そして、わたしだったら、その真実をどんなことばとして、書き綴っていくのだろうか。

(撮影中の盛田さん。伊地知写す)
夕暮れが、色濃くなっていく。
まるで、天国みたいだなぁと思う。
風がさぁっと吹いた。草が一斉に、さわさわさわっと、密やかな音を立てた。さわさわさわ、さわさわさわ。音は波紋のように広がっていく。
「おれが死んだときと、まったく同じ景色だ。」
不意に、盛田さんが奇妙なことを言い出した。
盛田さんは、20代の時に、客観的には決して助からないような交通事故で跳ね飛ばされた。その時、気を失った彼はうつくしい草原を見たのだという。いわゆる、臨死体験といえるだろう。
「おれが死んだ景色と、ほんとに一緒。違うのは、草の色が緑ってことだけだ。おれが見たのは、金色の草原だったんだよ。でもさ、風がさぁって吹いてて、ほんとうに同じ景色。こんなことってあるんだな。」

気がつけば、闇が色濃くなってきている。それでいて、全ての色がはっきり見える。
こんなことって、あるんだな。
こんなことって、あるんだね。
幾たびとなく死にかけて、幾たびとなく命を得た。そんな盛田さんが、「自分が死んだのと同じ景色」と感じる世界。こんなところに、あったとは。
大事故に巻き込まれた盛田さんは、奇跡的に助かった。
その時の救急隊員が、病院に向かう道すがら、ストレッチャーに乗せられた彼にこう言ったという。
「きみ、きみ、しっかりして!しっかりするんだ!こんな事故に遭って、それでも生きているということは、君には何かやることがある。やるべきことがあるから、生きているんだ。生かされているんだ!」
生かされたあとの世界で、死んだ景色を見る。息を吸って吐くように、写真を撮って歩いている。もう、あんなに遠くまで行っている。いつものことだ。
息を吸って吐く、それはもう、奇跡。
世界は奇跡に満ち溢れていて、奇跡の証人が、世界の息吹を届ける写真を撮って歩く。
喜悦旅游。
よろこびの旅は、気がつけば黄昏時。
あちらの世界とこちらの世界が繋がって、鳥がくるりと廻った。
なんとも不思議な世界を、垣間見てしまった気がした。

株式会社RaymmaのWEBマガジン「喜悦旅游」は、伊地知奈々子の文・盛田諭史の写真という定点から、「価値観の切り替わり」を表現することを目的としています。
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